バーナード・ショー名言集

『人と超人』(”Man and Superman”, 1903)

タナー ほんとうのものなら、なんでも恥かしい。われわれ自身にしても、われわれの親戚にしても、われわれの収入にしても、われわれの言葉使いにしても、われわれの意見にしても、われわれの経険にしても、みんな恥かしい、ちょうど、まっ裸でいるのが、恥かしいようにだ。ねえ、ラムズデンさん、われわれは、歩くのを恥かしがり、乗合馬車に乗るのを恥かしがり、自家用車を持たずに、辻馬車を雇うのを恥かしがり、馬二頭の代りに、一頭を持つことを恥かしがり、御者と従僕をおかずに、馬丁兼庭男を雇うのを恥かしがっている。なんでもよけいに恥かしがるだけ、立派な人間だということになっている。

『人と超人』pp.32-33

恥じらいはたしかに人間ならではの、高尚な感情かもしれません。恥じらいをもつことで人は節度をもって社会生活を営むことができますし、特に日本では謙虚や恥じらいは美徳とされています。でも、あんまり恥じらいの意識が強くなってしまって、なんでもかんでも人と比べて恥じらいや劣等感を感じていたら、人間、卑屈になってしまいます。

ドン・ファン 君の仲間は、みんなぐず犬だよ。彼らは、美しいのではなくて、飾っているばかりだ。彼らは、清潔なのではなくて、髭をそって、糊のついた物を着ているばかりだ。彼らは、威厳があるのではなくて、気のきいた着物を着ているばかりだ。彼らは、教育があるのではなくて、大学を当り前に卒業しているばかりだ。彼らは、宗教的なのではなくて、教会の定連であるばかりだ。彼らは、道徳的なのではなくて、因習的なばかりだ。彼らは徳があるのではなくて、卑怯なばかりだ。彼らは、不徳ですらもなくて、「心が弱い」ばかりだ。彼らは、芸術的なのではなくて、放縦なばかりだ。彼らは、隆盛なのではなくて、金があるばかりだ。彼らは、忠実なのではなくて、屈従しているばかりだ。義務を重んずるのではなくて、意気地がないばかりだ。公共的精神があるのではなくて、愛国的であるばかりだ。勇気があるのではなくて、喧嘩好きなばかりだ。決断があるのではなくて、頑固なばかりだ。おうようなのではなくて、いばっているばかりだ。自制があるのではなくて、まぬけなばかりだ。自尊心があるのではなくて、虚栄なばかりだ。親切なのではなくて、感傷的なばかりだ。社交的なのではなくて、群集的なばかりだ。思いやりがあるのではなくて、ていねいなばかりだ。知識があるのではなくて、やかましいばかりだ。進歩的なのではなくて、乱を好むばかりだ。想像的なのではなくて、迷信的なばかりだ。公平なのではなくて、復譬的なばかりだ。寛大なのではなくて、和解的なばかりだ。訓練されているのではなくて、脅かされているばかりだ。それから、少しも真実がなくて――どれもこれも、みんな噓つきなのだ、魂のどん底までも。

『人と超人』pp.227-228

いくつかピックアップして見てみましょう。
「美しいのではなくて、着飾っているばかりだ」というのは、耳が痛いですね。ブランド物を身につけていても、服に着られてしまう人もいますよね。
「教育があるのではなくて、大学を当り前に卒業しているばかりだ」。現代日本では訳半数の人が大学に進むと言われています。もはや、大卒は知性の証ではなく、ただエスカレーターに最後まで乗り切ったという証明書に過ぎないのかもしれません。
「彼らは、芸術的なのではなくて、放縦なばかりだ」好き勝手やることを「表現」だと勘違いしている人は、決して少なくありません。
「義務を重んずるのではなくて、意気地がないばかりだ」。自分の主張を口に出せず、おかしいと思うことをただせず、ただルールに従って生きていることを正当化したい人への痛烈な批判です。
「自尊心があるのではなくて、虚栄なばかりだ」。本当の意味で自分自身に誇りと自信を持つことは、案外難しいことです。Instagramに代表されるように、自分のきれいなところだけを周りにアピールして、かえって周囲の目線にがんじがらめになってしまう生き方は、さぞかし窮屈なものでしょう。
「社交的なのではなくて、群集的なばかりだ」。人との関わりを大切にしているといいつつ、ただ孤独を紛らわせたくて好きでもない人と群れているだけ。そんな人、身近にいますよね?
「知識があるのではなくて、やかましいばかりだ」。知っていることをひけらかしたくて、自分の話ばかり永遠としている人も迷惑ですね。(あ、たぬきのことだ……)

書誌情報

  • バーナード・ショー(1988)『人と超人』市川又彦訳、岩波書店。
    (George Bernard Shaw. (1903). “Man and Superman”