哲学者として教科書に載っている思想家は、いわば安楽椅子哲学者と呼ぶことができるだろう。大学やそれに類する組織に籍を置き、論文で先行理論を批判し、講壇に立ち抗議をする。
そこで展開される思想は良くも悪くも一般化され、抽象的な理論となる。もちろん、そうした哲学者たちの思索もその出発点をたどれば、個人的な体験に由来しているのだろう。子どもの頃に差別を受けただとか、人とのコミュニケーションが上手く取れないだとか。
しかし、博士課程にまで進んだたぬきだからこそわかるが、アカデミズムには独自の流儀や風習のようなものがある。扱ってよいテーマや議論の組み立て方にも暗黙のルールがある。そして何より、主観を徹底的に排除しなければならないため、研究者の「実感」は捨象されるか、あるいは覆い隠される。
ソローの思索はそれとは真逆のプロセスによって彫琢された。人里離れた森の中で自然と向き合い、また自己と向き合った。ソローにとって思想は生活と切り離されては存在しえないものであった。生きて、生活を送る。ただそれだけのことが哲学に昇華されうる。そのことを身をもって証明した稀有な思想家である。
ソローが「森の生活」を経て気づいたのは、人間は幸せになるためにこしらえたものに、かえってがんじがらめにされているということであった。たとえば、〈私〉が〈私〉であるために必要なのはこの身ひとつだけであるはずなのに、現代人は家に囚われた生活スタイルを余儀なくされ、引っ越しさえ気軽にできずにいる。そして、家という名のその牢獄を豪華にするために、時に精神を病んでまで必死に働いている。
だれが彼らを土地の奴隷にしてしまったのか?
多くの人間は、もっと大きくて贅沢な箱の借り賃を支払うために死ぬ思いをしている。
家だけではない。パソコンやスマートフォンはたしかに「便利」だが、それがあることでどれだけ生活が「豊か」になっているだろうか。パソコンのセッティングをしたり、データを守るためにバックアップをとったり、スマホの使い方がわからなくて悪戦苦闘したり、SNSで無為に時間を過ごしたり。
マーシャル・マクルーハンが喝破したように、メディアは身体の延長である。望遠鏡や眼鏡は目を拡張してくれる。電話やメールは空間を隔てて声や文字を届けることができる。しかし、それはあくまで人間がもともと行なっている行為を拡張しただけであり、今までまったく経験したことがないような体験を可能にさせてくれるわけではない。AIも含め、テクノロジーとは基本的にそういうものである。新しいことができるようになるのではなくて、ただ今までやっていたことが便利にできるようになるだけなのだ。
だから、たとえばどれだけパソコンやプログラミングに精通したところで、結局やることは日常業務の効率化に外ならない。そして、その日常業務も結局のところ、人びとの幸福な生活を目的としている。となれば、特段不都合が生じているわけでもないのに、必死になってプログラミングを勉強したり、電子機器の保守管理に忙殺されるのは本末転倒でしかない。
人間は自分がつくった道具の道具になりさがってしまった。
このソローの皮肉を聞いて、ドキッとしない人が果たしてどれほどいるだろうか。
技術が進歩して、「仕事」が人生の中心を占める現代社会では、稼ぐ人=成功者という図式が成り立っている(とされている)。しかし、それだけの大金を得て何になるのだろう。考えてみてほしい。自分にとっていったい何が幸せなのか。辿り着きたいゴールはどのような生活なのか。日本の俚諺にも「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」と言う。どんな人間だってたぬきだって、そこそこの広さの居場所と二合半のご飯があれば、それなりに快適に生きていけるはずなのだ。
タワーマンションの最上階に住んで、毎日値段を気にせずに外食して、何万円のワインやウイスキーをコレクションできれば、果たしてそれで満たされるのだろうか。人は時にそんな生活を夢見るが、かりそめの贅沢ではなく、それがずっと続くと考えたときに、それは私たちにとって幸せな生活なのだろうか。
もしも文明人の仕事が未開人の仕事以上に価値があるわけではなく、文明人が生涯の大半をもっぱら生活必需品と慰安物を得るためにのみ費やすのだとしたら、なぜ文明人は未開人よりも立派な家に住まなくてはならないのだろうか?
みんなが褒めたりもてはやしたりする人生は、数ある人生のひとつにすぎない。なぜほかの生き方を犠牲にして、ひとつの生き方だけを過大視しなくてはならないのだろうか。
たぬきは、自然も好きだが都会も好きだ。だから、都会での生活を手放そうとは思わない。文化が集結する地でさまざまな刺激や才能に触れることも、とても楽しいと感じている。しかし、ずっとそうした環境に身を置いていると、だんだんと心が蝕まれ蚕食されるような気になる。周囲と自分を比べ、自分の不出来さやコンプレックスばかりを見てしまう。
「やるべきこと」が際限なく積み上げられ、それらをスムーズに処理できない自分にいらだちを覚える。調子が良いときは調子が良いときで、図に乗って周りの人たちへの要求水準を上げてしまう。「これくらいはできて当然でしょ? できないならもっと頑張りなよ」というふうに。それは美しい生き方ではない。自分自身でそれを痛感している。
「自然」は人間の強さばかりでなく、弱さともうまく折り合ってくれるものだ。
自然のなかにいると、不思議なことに「やるべきこと」から解放される。「やるべきことだと思っていたけど、別にそれほどのことでもないな」とおおらかに考えられるようになる。自分にとって本当に大事なものだけに集中できるようになる。時間が緩やかに流れ、都会で感じている重圧から解放されている自分に気づく。
ソロー, H. D. (1995)『森の生活: ウォールデン』 (飯田実 訳). 岩波書店.