文系の学問はよく「役に立たない」という非難を浴びます。
たしかに、理系の学問と比べて文系の学問はお金になりません。
だから、文系の人間は多かれ少なかれ、そのことに負い目のようなものを感じています。
そして、そのコンプレックスが裏返って、文系不要論に過剰な反発を示してしまうのです。
文系研究者たちの言い分はさまざまですが、そのほとんどに共通しているのが「文系の学問にも価値がある」という主張です。考え方の幅を広げてくれるとか、人格を磨いてくれるとか、豊かな文化を創り出すとか。
もちろん、そうした言い分にも一理あります。しかし、やはりどこか虚しさを感じてしまうというのが正直なところです。必死さが丸見えで、なんだか可哀想になってしまいます。
文系のなかでも特に文学は、風前の灯火だと言わざるをえません。予算がどんどん割かれ、「文学? ははっ(笑)それって趣味ですよね?」みたいな見方が強まってきているような気がします。もちろん、一般的な見方の話です。
文学は学問としての意義を失ってしまったのでしょうか? 文学徒は「ぶ、、、文学だって大事なんだぞ……!」と強がりを言うことしかできないのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。文学には文学ならではの価値があります。
たぬきの知る限り、もっとも優雅にそれを論じて見せたのはジョルジュ・バタイユ(とその研究者である福島勲)です。
文学は役に立たないのではない。役に立ってはいけないのである。バタイユはそう言います。つまり、文学は自ら「役に立たない」という道を選んでいるのです。
文学は政治的要請に優先する。そして、作家も政治的要請から自由でなければならない。
福島勲『バタイユと文学空間』 p. 24
バタイユが抗おうとしているのは、文学や詩が自由を謳う政治的プロパガンダとして安易に動員されていく時代の風潮である。
福島勲『バタイユと文学空間』 p. 22
作家は、自身の信念に基づいて言葉を紡がなければならない。決して権力の代弁者になってはならない。だから、政治や経済とは独立していなければならないのです。
政治的な意義や経済的な価値を考慮せず、それどころかそれに抗うのが文学の役目だとすれば、文学は役に立たなくて当然です。でも、だからこそ政治が暴走したり、金にものを言わせるような風潮に対して、文学は毅然として「ノー」を突きつけられるのです。
バタイユはそもそも、文学どうこう以前に、人間を有用性の観点から論じてはならないと言います。
文学は人間の表現――それも人間の本質的なところの表現――である以上、有用ではあり得ない。人間はその本質なところにおいて有用性には還元できないのだ。
福島勲『バタイユと文学空間』 p. 23
人間は「使える奴」だから価値があるのではありません。そんなことを言ってしまえば、使えない奴は価値がないということになってしまいます。その結論は、さすがに受け入れることはできません。
人間は「役に立つかどうか」で価値を決められてはならないし、人間の内面を表現したものである文学もまた、有用性の観点で論じるべきではないとバタイユは考えます。
一言で言えば、作家は役に立ってはいけないのだ。バタイユは役に立たない作家が書くものを文学と言いかえつつ、それが決してプロパガンダとなってはならないこと、常に人間の本質的な役に立たなさと呼応していなければならないと言う。
福島勲『バタイユと文学空間』 pp. 22–23
作家は役に立たない。その作家が書く文学も役に立たない。なぜなら、文学が表現している人間そのものが役に立たないもの、より正確に言えば、役に立ってはいけないものだからである。バタイユにとって、人は、道具や手段としてではなく、常に目的として現れる。目的は何かに仕えることも、何かの役に立つ必要もない。それは最終審級として、徹底的に何の役にも立たないのである。
福島勲『バタイユと文学空間』 p. 23
科学技術はたしかに人間の生活を豊かにする「役に立つもの」です。でも、そうであるがゆえにそれは人間の生命や文化をおびやかす脅威ともなりえます。実際、ダイナマイトも原爆もインターネットも、人間の生活を豊かにするテクノロジーであると同時に、戦争に利用される武器でもありました。
その点、文学は安心です。役に立たないから悪用されるリスクもほとんどありません。
役に立たないということが文学のアイデンティティであり、文学は役に立たないからこそ逆説的に価値があるのです。